カタロゴ京都ロゴカタロゴ京都は、京都の企業・組織・お店・学校などの歴史を、写真を中心に一冊の本にまとめたもの。
懐かしい写真とともに伝統と歴史をコンパクトで美しい冊子に仕上げます。

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亀岡・築300年の武家屋敷 へき亭

京都府亀岡市千歳町毘沙門向畑40 TEL 0771-23-0889 FAX 0771-25-6333

三百年の時を越えて

日置家は、亀山(亀岡)の城を真正面に見ることができるこの地で、江戸幕府旗本津田藩の代官をつとめていました。また、日置流という弓道の祖と言われております。江戸時代に建てられた母屋の両脇は藪に挟まれ、門前の道は京の都に通ずる旧街道です。屋敷の周りの石垣土塀は、今も当時のままの姿で残っております。代々の当主が、現在まで大切にこの屋敷を守ってまいりましたが、広く皆さまにご覧いただきたいとの思いから、1994年(平成6年)より、京都の家庭料理をご提供する「へき亭」を開店いたしました。
江戸時代の息吹が確かに感じられる「へき亭」で、ひとときの時間旅行を楽しんでいただければ幸いです。 明治維新後、武家個人の所有であった屋敷は、建築の近代化などによって姿を消していきましたが、日置家は当時のままの面影を残しております。玄関から奥の座敷、襖や掛け軸、調度品まで、可能な限り、当時のままの姿でお客さまをお迎えしています。

 

へき亭では、地元亀岡の採れたて野菜と食材を生かし、毎回違ったお料理をご提供しています。春夏秋冬、四季折々の旬の野菜は目にも鮮やかで、体にも優しい。五感に広がる自然な味わいに、亀岡の風土を改めて感じていただけることでしょう。
お客さまの笑顔を目にする度に「次はどんなものをお作りして喜んでいただこう」と毎回献立を考え、創作料理を作り続けてきました。1日数組限定のお客さまに、心を込めたおもてなしを・・。
それがへき亭の信念です。

 
 

歴史を刻む風景

日置家は敷地600坪、建坪300坪。当時の玄関は、入り口から庭を通り抜けた屋敷の中央にありました(写真右)。玄関を上がった奥に客間が二間ありますが、この客間は家族といえども出入りはできませんでした。玄関と客間を使用できるのは当主と客人のみで、家族は勝手口の奥にある小さな部屋に住んでいました。また当時は家族が一同に集って、一家団欒を楽しむという概念もなく、現在の「居間」というものは存在しませんでした。

現在の玄関 当時は勝手口となっていました
現在の玄関より客間を眺める
 

紙本墨画淡彩 縦169.4㎝ 横93.0㎝(四面) 縦169.4㎝ 横69.0㎝(四面) 江戸時代末期襖8枚に40羽余りの鶴を描く。大きく二群に分かれ、一群は芦辺にとまり、もう一群は上空から飛来する。 この絵が描かれている部屋は欄間に鶴の透かし彫り、釘隠しも鶴の形の金具と、「鶴尽し」になっており、これを設計した当主の鶴に対する愛着が伝わってくる。同家には他にも、同じく岸連山の「松に鶴図」衝立が遺されている。(『亀岡市史』資料編 発行 平成8年3月31日 第4巻 275頁より引用)

 

華やかな時代

豪華絢爛な結婚式や、ホテルの晩餐、贅沢な仕立ての服装など、日置家に残る明治、大正時代の数多くの写真からは、華やかな交友と生活の様子が見て取れます。

近世の主な出来事と亀岡地域・日置家の歴史

江戸時代 初期

1582年(天正10年)

本能寺の変

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦い

1603年(慶長8年)

徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く

1615年(元和元年)

武家諸法度(元和令)を定める

 

江戸時代 中期

1716年(享保元年)

徳川吉宗、征夷大将軍となる

1716~1745年

「享保の改革」8代将軍吉宗によって幕府権力の強化と幕府財政立て直しのため大改革が行われる

1787~1793年

「寛政の改革」11代将軍家斉の老中であった松平定信が支配体制を強化し、厳しい幕政改革を行うが、民衆による反発を招き、6年で老中を辞任

 

江戸時代 末期(幕末)

1841~1843年

「天保の改革」12代将軍家慶の下、水野忠邦が幕府の権力を強めようと行ったが不首尾に終わり、失脚

 

1867年(慶応3年)

大政奉還・王政復古

亀岡地域

亀岡地域における旗本知行地は、関ヶ原の戦いの論功行章によるものから始まる。慶長5年から元禄10年の約100年間に、数多くの領主が亀岡地域に支配地を給された。

旗本 津田氏の知行地

津田正重は、1617年(元和3年)(美濃国不破・安八・大野・羽栗・可児の五郡、丹波国桑田郡の計六郡で4,010石の知行地を与えられる。桑田群の知行地は、毘沙門・川関・杉(篠山藩との相給)・江島里(亀山藩との相給)・金岐宿村(旗本佐々氏との相給)の5ヶ村1,004石5升でである。

 

代官として1661年~1673年(寛文年間)に大島藤兵衛・日置三右衛門、1686年(貞享3年)に日置三右衛門、1730年(享保15年)川勝勘右衛門・鈴木政右衛門がつとめる。

1840年(天保11年)吉川伝右衛門、杉村の川勝又蔵、江島里村の広瀬宇兵衛の3人が中小姓席代官助役を命じられる。

吉川伝右衛門 (日置伝右衛門)

吉川伝右衛門は、1828年(文政11年)に御用金25両を負担し、一代限りの苗字御免と裃を授けられた。次いで天保11年、津田氏江戸屋敷の類焼による再建申請に御用金を上納して、中小姓席代官助役に登用され、熨斗目(のしめ)の着用を許された。1850年(嘉永3年)5月には、かつて代官をつとめた日置三右衛門家が断絶しているので、その家名相続を命じられ、給人席に登用された。以後、日置伝右衛門と名乗るようになった。美濃国羽栗郡長池村(岐阜県羽島郡笠松町)にも陣屋があったようで、嘉永6年には伝右衛門はここに詰めていた。

(『亀岡市史』本文編 発行 平成16年3月20日 第2巻 412-413頁より引用)

明治

1868年(明治元年)

明治維新

1871年(明治4年)

廃藩置県

1894年(明治27年)

日清戦争

大正

1913年(大正2年)

大正政変(第三次桂太郎内閣解散)

1923年(大正12年)

関東大震災、虎の門事件

1926年(大正15年/昭和元年)

昭和

1939年(昭和14年)

第二次世界大戦始まる

1945年(昭和20年)

硫黄島の戦い、沖縄戦、占守島の戦い
8月14日 ポツダム宣言受諾

 

1946年(昭和21年)
〜1950年(昭和25年)

農地改革

 

1989年(昭和64年/平成元年)

日置家

日置家は子どもの勉学のため、亀岡に屋敷を残したまま、京都市内の別宅で生活する

日置 啓次郎
明治26年4月28日

日置伝一・京子夫妻 京都・都ホテルにて挙式 その後伝一が上海の海運会社へ赴任

 

日置伝一 上海の海運会社に勤務していたが、日本に引き上げて公務員となる

 

1994年(平成6年)へき亭オープン